無論、なんとなく

風のように自由

無論、なんとなく

『なんとなく』っていう感覚は大事だ。なんとなくっていう感覚は、自分の純粋な欲求が含まれていると俺は思う。
なんとなく、という言葉の中にはきっと多くの理由が含まれているんだろう。

心の底からふと出てくるもの。
なんとなく、に従えば心は気持ちいい。「なんとなく」は心の自然な欲求だからだろう。

言葉にはしずらい時に『無論、なんとなく』。
ぶっちゃけ言葉にすると長くなる時に『無論、なんとなく』
言葉にするとめんどくさい時に『無論、なんとなく』
あとはまぁ色々あって言葉にできない時に『無論、なんとなく』。

言葉にして理由を説明できない時したくない時は『無論、なんとなく」というのもいいだろう。

理由はあなたの心の中にある。例え言語化できなくとも――それもまた良し。
あなたの心の中に理由があれば十分、万が一なくてもそれもまた良しだ。

『なんとなく』で行動する――それもまた良し。

なんでこの話をしたかって?

人間の心は複雑だ。識域下であまたの思考思想がうずまいている。本来言語とは不完全なもの。心は言語というフィルタを通す事で心意を伝える言葉は真意から離れる。日本人が窮屈な想いをしているのはよくないともさ。
人間と人間はコミュニケーションを必要とする。だがそれは一つの鎖だ。
社会から心を束縛する弁証の鎖である事を意味している
理由を無理矢理見つけるないしは言語化するために心が疲れてしまう。心は自由。だが理由という束縛によって心が束縛され疲弊してしまういや理由が悪いわけではない問題は心を理由を言語化するプロセスにある。本来識域化で数多の情報を元に行動を決定しているが、その事実を言語化するのに人は疲弊する。
心がそれを求めているのには莫大な理由があるにも関わらずだ。結果、心が真意が歪みが重なる。コミュニケーションを前提とした社会では生きづらくなってしまう。
解決策は数多のあるだろう。
『只心が求めている』という理由に社会的正当性をもたせる事をほんの少しでも、針の一さしでも、野水の一滴でも浸透させる事だろう。
本来自由な人の心を理由という言語化が求められるのが社会だ。それは一つの制約だろう。その制約から解き放たれるために『なんとなくという』言葉を送りたい。この言葉でお前が少しでも心が楽になってくれると嬉しい。その在り方は社会にひとつの風を吹かせるのだから。


無論、なんとなく